夢主義社会トップへ 反省のポーズ、サルでもできる   2005年10月01日  戻る

現在の裁判では、事件を起こした時の犯罪者の精神状態や、その後の反省の度合いによって、罪の重さが変わってくるようです。
このため、事件直後の犯罪者の状況説明と、裁判に入っての状況説明が変わってくることが多いようです。少しでも罪を軽くしようという弁護士の入れ知恵なのでしょうが、何とも釈然としないものがあります。

テレビドラマや映画を見れば分かるように、人は、本来の自分とは違う人間を、自由に演じることができます。単なる反省のポーズで、罪の重さが変わるのは間違っていると思います。さらに言うならば、このような入れ知恵を行う弁護士も問題です。弁護士を告訴したい気がします。

そもそも、人の心なんてものは、曖昧であり、善と悪が常に入り混じっています。悪いと分かっていながら、犯罪を犯す人は多いです。その人の頭の中で、最終的に悪が優先したために、犯罪を犯した分けです。そして、心は、脳の中で行われている物理的な化学反応に過ぎません。心・精神・感情といった神憑り的な言葉で表現すると、本質を見失ってしまうように思えます。つまり、犯罪者は、犯罪を犯す頭(脳)を持った機械(歯車)と考えた方が適切だと思います。
「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが、確かに人を憎んでも仕方がありません。人は単なる機械(歯車)に過ぎないのですから、機械を憎んでも仕方がありません。但し、犯罪を犯す機械(歯車)を放置することはできません。その犯罪を犯す機械(歯車)を壊すか、犯罪を犯さないような場所で利用するか、ということになります。
今の社会では、無期懲役になった犯罪者でさえ、刑務所で反省のポーズを見せれば、一般社会に復帰できるそうです。つまり、犯罪を犯す機械(歯車)を、一般社会に放置することになります。そして、当然のことながら、犯罪者が出所後、再度、犯罪を犯すことが多いようです。

これは、今の法律そのものに問題があるようです。